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合気道開祖・植芝盛平翁について(Aikido Founder・Morihei Ueshiba)

合気道を極めた植芝盛平翁

 顕彰像

合気道の創始者・植芝盛平翁は和歌山県田辺市元町(旧・西牟婁郡西ノ谷村、現・田辺市上の山)に生まれ、幼い頃から武道に励み、19歳で修行の旅に出て各流の武術遍歴を重ねつつ独自の武術を習得しました。

 1942(昭和17)年に合気道と名づけ、国内はもとより世界中にその名を広めました。
 その功績を称え、1969(昭和44)年に田辺市名誉市民の称号を受けました。
 「合気道」のその技は、相手に触れるやいなや一瞬のうちに相手を制することができるといわれています。
 しかし、合気道は一般のスポーツや競技武道と違い、無理に相手を倒そうとするものではなく、また、強弱、勝負を争うものではありません。
 翁がつねづね「合気とは敵と戦い敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である」といい、そもそも合気道は、相手と相和して切磋琢磨をはかり自己の人格完成を目指す武道だと述べています。すなわち、「合気道とは、各人に与えられた天命を完成させてあげる羅針盤であり、和合の道であり、愛の道」なのです。
 この理想は、日本のみならず世界の武道として広く愛されるとともに大きく発展を続け、1988(昭和63)年には生まれ故郷「田辺市」で第5回国際合気道大会がはなばなしく開催されました。
 その記念として扇ケ浜公園内に、翁の銅像が建てられています。
 このほか、盛平翁を称え、田辺市では植芝家先祖代々の墓、盛平翁の生家跡、植芝盛平頌徳碑などを保存顕彰しています。

高山寺

頌徳碑

地図

生いたち

 植芝盛平は、1883(明治16)年12月14日、和歌山県西牟婁郡西ノ谷村(現在の田辺市上の山)で農業を営む植芝与六・妻ゆきの長男として生まれる。
 大変大事に育てられ、小学校に入学。心身共に成長した盛平は、和歌山県第二尋常中学校に入学。しかし、神経質な性格のため、一年で中退。かわりに、吉田珠算研究所に通い、ここで学んだそろばんの特技を活かし、税務署に勤務。活躍していたが、1901(明治34)年に漁業法が制定され、重税をかけられることになり、税務署員の立場を忘れて漁民たちと共に反対運動に参加。その結果、税務署を辞職。東京で働くことを決意し、18歳で上京。

武道へのめざめ

 苦難の東京生活の間に、起倒流の柔術を習得し、剣道の神陰流道場にも通いつめるが、体調をくずしやむなく帰郷。
 その後、体調も回復し、幼なじみの糸川はつ(明治14年生)と結婚。さらに、大阪第四師団管下第三十七連隊へ入隊。
 1905(明治38)年、日露戦争へ従軍。数々の手柄をたて、上官から陸軍予備士官学校への入隊をすすめられるも、植芝家跡継ぎのため、除隊。実家に帰った盛平は、農作業をするかたわら、武道にも力を注ぎ、田辺に来た講道館柔道の高木喜代市と出会い、自宅に道場をつくり地元の青年たちと共に、指導を受ける。
 その頃、明治政府は、地方神社を統合整理するという「神社合祀令」を発布。盛平と地元の青年たちは、博物学者の南方熊楠を助けて、この合祀に反対運動を起こし、田辺の神社統合は最小限度にとどめられた。

北海道へ入植

 1910(明治43)年春、北海道開拓海外移住者団体募集計画があると聞いた盛平は、村内有志を中心とする54戸、80名あまりの参加者を募り、「紀州団体」を結成。盛平はその団体長となり、1912(明治45)年5月20日、上湧別村(現在の紋別郡遠軽町白滝地区)へ入植。紀州団体入植計画は、過酷な条件のため二年間の苦労を強いられたが、徐々に成功し、盛平は村民たちから「白滝王」とよばれた。

その間も盛平の武道に対する姿勢は変わらず、1915(大正4)年、遠軽町の旅館で大東流柔術の達人武田惣角と出会い教えを乞う。さらに彼を村に招き、村民有志と共に修行する。
 1917(大正6)年5月23日、上湧別村で大火災が発生し、白滝開拓地はほぼ全焼。盛平は村民と共に村の復興に取り組む。
 1918(大正7)年、村会議員となり、多忙な日々を送っていた盛平のもとに、「チチキトク」の電報が届く。役職も財産もすべて放棄し、帰郷することを決意。

京都綾部での植芝塾

 帰途、「京都の綾部(現在の京都府綾部市)に病気回復を祈願してくれるところがある」と聞いた盛平は、綾部に立ち寄り、宗教家の出口王仁三郎と出会う。そこで「人間の生きる道」について教義を受ける。帰郷したが父はすでに他界。1920(大正9)年、一家あげて京都の綾部に移住。綾部では、精神的な修行と肉体的な修行に励み、「植芝塾」を開設。「植芝塾」の基本的な考えである「武農一如」を宗教の信者たちを中心にした弟子たちと共に実践。さらに、気・心・体が一体となる「合気武術」を生み出す。

合気道の夜明け

 合気武術の評判はあがり、竹下勇海軍大将の招きで、東京で演武会を開催。この演武会は、宮内庁関係者にも影響し、二十一日間の特別講習会も行われた。その後、各界の名士や海軍関係者からの再三の招きがあり、1927(昭和2)年、妻子を連れ上京。転居した家に仮設道場を造り、合気武術の指導にあたると共に、海軍大学校の武術講師として、合気武術を理論的に広める。

 入門者が相次いで盛況を呈すると共に本格的道場を建設することになる。この間、目白の下落合に仮設道場を開く。この道場に、講道館柔道の嘉納治五郎が来訪。盛平の合気武術を見て、その気・心・体のそなわった神技に感銘を受け、門下生を入門させる。
 1931年(昭和6)4月、待望の道場「皇武館」が牛込若松町(現在の新宿区若松町)に完成。牛込の「地獄道場」と呼ばれ、実力のある内弟子が多数育つ。道場も皇武館以外に東京、大阪に数カ所設置し、合気武術を「合気武道」と改める。
 1940年(昭和15)4月30日「財団法人皇武会」として厚生省から認可。この認可によって、合気武道の活動をさらに広げ、1942(昭和17)年、「合気武道」の名を改め、正式に「合気道」と名のる。

武農一如の最終地

 武農一如の理想を貫くため、茨城県岩間町(現在の茨城県笠間市)へ移住。林野開墾の精を出し、1943(昭和18)年から1945(昭和20)年にかけて合気神社建立、合気修練場が完成。終戦後、合気道の新しい拠点となる。
 1948(昭和23)年、文部省から、「財団法人 合気会」として認可される。

和の武道の神髄

 合気の道を、岩間町で極めた盛平は、1950(昭和25)年から再び武道の普及活動に入る。
 70歳前後であった盛平の技は、穏やかさを感じさせる合気と愛気が一体になった円熟の境地に入っていた。
 1956(昭和31)年、世界各国の大使や公使を招き、戦後初の一般公開演武会を開催。1960(昭和35)年1月、日本テレビで、「合気道の王座」が製作される。このような活動に対して文化の日に「紫綬褒章」を受賞。また、1964(昭和39)年、「勲四等旭日小授章」を受賞。

演武大会

開祖

昇神

 1969(昭和44)年、和歌山県田辺市名誉市民、並びに岩間町名誉町民の称号も贈られる。4月26日午前5時、86歳で逝去する。
 最後の叙勲として、「正五位勲三等瑞宝章」が贈られる。5月2日、東京での本葬を始め、岩間町では町葬、田辺市では市葬が行われる。遺骨は、田辺市高山寺に埋葬される。その後、国内のみならず、国外からも多数の合気道士が高山寺にある墓地を訪れている。

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最終更新日:201617