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市長のコラム

アナログ人間  (平成24年1月16日)

 最近、会話中に「私は、アナログ人間なので…」という言葉をよく耳にする。
 一昔前、初めてのファックス送信で、「何回送ってもすぐに戻ってくる。」という笑い話があったが、近頃では、「電子辞書のページをめくるのに指を舐めた。」といったところだろう。このようにデジタル機器が苦手な人を、「アナログ人間」と呼ぶことが一般的であり、実際に「アナログ人間」の大半は、「自分はちょっと時代遅れ」といった自虐的な表現を用いている。
 しかし、厳密にいえば、「新しいもの=デジタル」というイメージの対比として、「古いもの=アナログ」との解釈により使用するのは誤用とされている。ウィキペディア(※ウィキペディアは、ウィキメディア財団が運営するインターネット百科事典)では、「アナログは、類似・相似を意味する。連続した量(例えば時間)を他の連続した量(例えば角度)で表示することで、時計や温度計などがその例である。エレクトロニクスの場合、情報を電圧・電流などの物理量で表わすのがアナログで、数値で表わすのがデジタルである。」と解説している。また、「アナログ」は車のスピードメーターのように、瞬間的、直感的な把握がしやすいといった長所がある一方、オーディオ機器のように、保存・複製・転送による劣化が生じる、といった短所が指摘されている。こうした特長から、比喩的に用いる場合、「物事を割り切らず、曖昧さを残しつつ理解する人のこと」を『アナログ人間』とするのが正しいようである。このように、専門用語から由来する言葉などでは、得てして自分流に解釈をして使っている例も少なくない。
 理屈はさておき、近頃は「アナログ」や「デジタル」の語意などは気にもせず、「これからはデジタルの時代。電子書籍が普及すれば、本や新聞などの紙媒体は必要なくなる」という意味の発言をする人が増えていて、先日もタブレット端末を片手に丁寧に説明をくれた人がいた。かのいう私も、最近スマートフォンを購入して、手軽に新聞記事などが読めるくらいのことは十分に承知している。とはいうものの、便利さを享受しながら一方で思うのは、本当に「これ」に変わって「本や新聞は無くなるのだろうか?」、いや、もっと正確にいえば「本や新聞を無くしていいのだろうか?」ということである。
 私が成人して僅か30年あまり、この間だけでも世の中は飛躍的に便利になったのは言うまでもない。30年前に他界した「朝日に手を合わせ、夕日に感謝していた」明治生まれの祖父が、もし生き返ったとすれば、例えばカーナビゲーションをどのように説明するか、ということは容易なことではないだろう。カーナビの使い方以前に、これまでの科学技術の進歩の過程を説明しない訳にはいかないほど進歩は著しい。
 一方、人間そのものの能力はどうだろう。明治生まれの祖父と比較すれば、天気予報ひとつとっても明らかだ。釣りの好きな私は、気象衛星から配信される雲の流れと気圧配置を見れば、明日の釣り場はほぼ決定できるが。一昔前、当たらないものの代名詞であった天気予報だが、最近の精度は飛躍的に上がっている。しかし、よりローカルで局地的な予報なら祖父に軍配が上がる。自宅付近の天気なら、朝の空気、湿度や温度、霧の深さや霜の有無、雲の流れや風の向き、祖父の五感による予報はまず外れることはない。五感だけでなく第六感もあってか、とにかくよく当たった。そして、これはなにも祖父に限ったことではなく、当時の人々が生きるために必要な能力の一つであったともいえる。人は自然とともに暮すため、生活上の体験や経験、また先人からの言い伝えなどからその術を得た。要するに体験による人間力に、情報に頼る知識だけでは及ばないということであろう。
 目覚しい「進歩」の中で「退化」していくもの、便利さを追求するあまり失われつつあるものについて、少しスピードを緩めて考える余裕も必要ではないだろうか。「アナログ人間」を自称するなら、時代遅れを卑下するといった意味ではなく、せめて「私にはデジタル化によって失われつつある、人間の温かみや味わいがあります。」といった誇りを含む意思表示として使いたいものである。
 

 平成24年1月16日

shomei    

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最終更新日:2022330