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市長のコラム

学び方  (平成22年4月28日)

 少し大げさに思われるかも知れませんが、最近読んだ本によって30余年来抱いていた疑問が解けた気分になりました。
 30年余りも前ですから10代後半の頃です。昭和の名僧と称される高僧と生活を共にする機会に恵まれました。機会に恵まれたと言えば聞こえはいいですが、そうせざるを得なかったと言えなくも無く、その経緯について今回は省略します。
 ある日、老師を空港までお送りした時のことです。帰り際に、「ご苦労さんじゃった。帰りにうどんでも食べなさい。」と、折りたたんだ小さな紙を一つ手渡してくれました。一人になってから開けてみると、“なんと”千円札が一枚入っていたのです。頼りない記憶をたどっても、その頃のうどん一杯の値段がどれ程だったか、明確な答えは見つかりませんが、千円とは比較にならないくらい安かったことは間違いありません。
 それから暫らくして、再び老師をお送りする機会がありました。帰り際です。前回の場面を再現するように、「ご苦労さんじゃった。帰りにうどんでも食べなさい。」と手渡されたのは同じ包み紙でした。正直なところ少し期待をしていた私は、「ありがとうございます。」の言葉にも、いつになく力が入っていたように記憶しています。一人になるとすぐ、ラッキーなお小遣いを確認するため、急いで袋を開けました。すると“なんと”(あの時と同じ“なんと”ですが)今度は袋の中身が違います。“なんと”入っていたのは百円硬貨一枚だけでした。已めよ
 言うまでもなく、この日からが私の悩みの始まりです。「老師はこのことで、私に何かを教えてくれているに違いない。」「それにしても、千円と百円の違いは何を意味するのだろう?」「私にはハイレベル過ぎて理解ができないのかもしれない。」「どうしたらこの教えを理解できるのだろう?」答えを見つけることができない私は、「老師は単にお金を入れ間違えたのだろうか?」と考えることさえありました。自問自答の年月が経過する中、「‘千円’とか‘百円’とか、ましてや‘うどん’とかに囚われることをやめよ。‘ご苦労さん’、‘ありがとうございます’を大切にしなさい。」老師の教えはこのように解釈できるのではないか、と思うようになりました。「中(あた)らずと雖(いえど)も遠からず」、そんなに的外れな答えではないと、それまでそう思っていました。
 ところが最近、この問いを解く文章に出会いました。少し長くなりますが、端折ることなくそのまま紹介します。
  これまで教育論で何度も引きましたけれど、太公望の式略奥義(おうぎ)の伝授についてのエピソードが『鞍馬天狗』と『帳良(ちょうりょう)』という能楽の二曲に採録されています。これは中世の日本人の「学び」というメカニズムについての洞察の深さを示す好個の適例だと思います。
 帳良というのは、劉邦(りゅうほう)の股肱(ここう)の臣として、漢の建国に功績のあった武人です。秦の始皇帝の暗殺に失敗して亡命中に、黄石公(こうせきこう)という老人に出会い、太公望の兵法を教授してもらうことになります。ところが、老人は何も教えてくれない。ある日、路上で出会うと、馬上の黄石公が左足に履いていた沓(くつ)をおとす。「いかに張良、あの沓を取って履かせよ」と言われて張良はしぶしぶ沓を拾って履かせる。また別の日に路上で出会う。今度は両足の沓をばらばらと落とす。「取って履かせよ」と言われて、張良またもむっとするのですが、沓を拾って履かせた瞬間に「心解けて」兵法奥義を会得する、というお話です。それだけ。不思議な話です。けれども、古人はここに学びの原理が凝縮されていると考えました。
 『張良』の師弟論については、これまで何度か書いたことがありますけれど、もう一度おさらいさせてください。教訓を一言で言えば、師が弟子に教えるのは「コンテンツ」ではなくて「マナー」だということです。
 張良は黄石公に二度会います。黄石公は一度目は左の沓を落とし、二度目は両方の沓を落とす。そのとき、張良はこれを「メッセージ」だと考えました。一度だけなら、ただの偶然かもしれない。でも、二度続いた以上、「これは私に何かを伝えるメッセージだ」とふつうは考える。そして、張良と黄石公の間には「太公望の兵法の伝授」以外の関係はないわけですから、このメッセージは兵法極意にかかわるもの以外にありえない。張良はそう推論します(別に謡本にそう書いてあるわけではありません。私の想像。)。
 沓を落とすことによって、黄石公は私に何を伝えようとしているのか。張良は、こう問いを立てました。その瞬間に太公望の兵法極意を会得された。
 瞬間的に会得できたということは、「兵法極意」とは修業を重ねてこつこつと習得する類の実体的な技術や知見ではないということです。兵法奥義とは「あなたはそうすることによって私に何を伝えようとしているのか」と師に向かって問うことそれ自体であった。論理的にはそうなります。「兵法極意」とは学ぶ構えのことである。それが中世からさまざまの芸事の伝承において繰り返し選好されてきたこの逸話の教訓だと私は思います。「何を」学ぶかということには、二次的な重要性しかない。重要なのは「学び方」を学ぶことだからです。

 長い引用になりました。「腑に落ちる」とは正にこのことです。永年の疑問が晴れた理由をよくご理解いただけたと思います。もちろん私は、この逸話に登場する「張良」におよぶ者ではありません。その証拠に、張良は二度目の沓を履かせた瞬間に「兵法極意」を会得したのに対し私は30年余りの間、老師の意図を明確に理解できずにいたのです。しかしながら、瞬時に理解できなかったことで、永年その問いを持ち続けることができたと考えれば、むしろプラスに働いたということもできます。
 今にして思えば「黄石公」の様な人に身をもって触れる機会を得られたことは、この上ない貴重な経験であり、その後の考え方に大きな影響を受けたことだけは間違いのないところです。
 

 平成22年4月28日

shomei   

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最終更新日:2022330