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市長のコラム

学び方 その2 (平成22年6月15日)

 先日配信した「学び方」に対し、少し解りにくいとの声をいただきました。
 それは至極当然なことで、筆者としても、禅問答のような内容でうまく真意が伝わるか心配していたところです。そこで、引き続き同じ本からの引用になりますが、さらに解りやすい例え話を紹介します。
 『「こんにゃく問答」という落語があります。旅の学僧と、住職に化けた無学なこんにゃく屋の六兵衛という男が無言のままデタラメな問答をする話です。学僧が手で印を作っての問いかけに対し、六兵衛さんがジェスチャーで応じる。学僧が指で丸をつくって胸の前に置くと、六兵衛さんは大きな輪を作って応じる。学僧が十本の指を立てると、六兵衛さんは五本の指を指し返す。学僧が指三本を突き出すと、六兵衛さんは自分の目を指さす。学僧はこの答えに驚嘆して、「ご住職は大変な学者である」と感心して去って行きます。
 学僧の理解するところでは、第一問は「胸中は如何」というものでした。それに対する住職(実は六兵衛さん)の答えは「大海の如し」。第二問「十方(じっぽう)世界は」。住職の答えは「五戒で保つ」。第三問「三尊の弥陀は」。答えは「眼下にあり」。なんと深遠な回答であろうかと学僧は仰天してしまうのです。
 ところが、六兵衛さんの理解では、第一問「お前のところのこんにゃくはこのくらいだろう」、答え「ばかやろ、これくらいだよ」。第二問「十丁でいくらだ」、答え「五百文だよ」。第三問「三百にまけろ」、答え「あかんべえ」。
 本当に奥の深い落語です。『こんにゃく問答』のすごいところは、この学僧がこんにゃく屋の六兵衛さんから実際に深遠な宗教的知見を学んでしまったということです。弟子は師が教えたつもりのないことを学ぶことができる。これが学びのダイナミズムの玄妙なところです。』

 これでご理解いただけたかと思います。つまり「学び」とは「学ぶ側の心構え」だということです。
 それでは「教える側」は誰でもよいのか。となれば、「こんにゃく問答」は別にして、現実的には、そんなに極端なことにはなりません。「教え」と「学び」の関係は、卵から雛がかえる様にも似ていて、まさに「啄同時」(そったくどうじ)、「啄の機」(そったくのき)とも言えるでしょう。この場合、「学び」が「」で、「」とは「鶏の卵がかえる時、殻の中で雛がつつくこと」であり、「教え」が「啄」で、「啄」とは「母鶏が殻をかみ破ること」になります。しかし、あえてどちらが主体であるかとなれば、「啄」の字の順番どおり、やはり「」すなわち「生まれようとする雛鶏」であり、「学ぶ側」であるといえるでしょう。
 いずれにしても、「学び」とは「学んだ後」になってはじめて自分が学んだ意味や有効性について語ることができるもので、「何から」「何を」学ぶのか、「学ぶ側」の目的意識なくして「学び」は成り立たたないという極当たり前のことを、随分以前に「学び方」を教えようとしてくれた方から改めて学んだ次第です。
 

  平成22年6月15日

shomei   

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最終更新日:2022330